浦和地方裁判所 平成6年(わ)274号 判決 1994年7月12日
主文
被告人を懲役三年に処する。
この裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予する。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、生来の融通のきかない生真面目な性格に加え、かねてから喫煙を嫌っていたことから、禁煙場所で喫煙するというようなマナーをわきまえない者を嫌悪し、そのような者に対しては幾度か注意していたものであるが、出勤途中の平成六年三月七日午前八時五二分ころ、埼玉県越谷市南越谷一丁目二一番一号所在の東日本旅客鉄道株式会社南越谷駅一番線ホームで電車を待っていたところ、同ホームでは終日喫煙場所以外での喫煙が禁じられていたにもかかわらず、同ホームの禁煙の場所で、以前にも喫煙を注意したことのあるY(当時五七歳)が煙草を吸っているのを認めて不快の念を抱き、到着した電車に乗ろうとしてそのドア口付近にいた右Yに近づいた際、同人に対し、「何で吸ってんだよ。前にも注意したろ。」などと言いながらその左肩あたりを肘でこづいたところ、同人が前方によろめいて鞄を落とし、その後向き直って「何もこづくことねえだろ。」と言いながら被告人の方へ近づいてきたことから、同人と争いになって出勤時間に遅れることを危惧し、とっさに同人の顔面・頸部付近に、左足でいわゆる回し蹴りを一回加えてその場に転倒させ、よって、同人に頭蓋骨骨折、急性硬膜下血腫及び脳挫傷等の傷害を負わせ、翌八日午後一時七分ころ、同県川口市東川口二丁目一〇番八号所在の東川口病院において、同人をして、右傷害により死亡するに至らしめたものである。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)
被告人の判示行為は刑法二〇五条一項に該当するので、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三年に処し、情状により同法二五一項を適用してこの裁判確定の日から五年間右刑の執行を猶予することとする。
(量刑の理由)
本件は、判示のとおり、被告人が、乗降客で混雑している駅のホームで、被害者の喫煙に不快の念を抱き、同人に対して肘でこづくという方法で注意し、さらに回し蹴りを加えてホーム上に転倒させ、死亡させたという重大な事犯である。被告人は、右回し蹴りについて手加減したとは言うが、回し蹴り自体、本来極めて強い攻撃力を持つものであるうえ、被告人が空手初段の資格を有していることからすれば、相当強烈な衝撃を被害者に与えたものと推認され、その犯行態様、被害者の死亡という結果の重大性からして、被告人の刑事責任には誠に重いものがある。犯行に至るきっかけとなった、禁煙場所での喫煙者に対する注意それ自体は理解できないではないが、喫煙を注意するのであれば、口頭でなすべきが当然であり、いかに被害者に対して以前にも注意したことがあったとはいえ、本件において被告人のとった肘でこづくという方法は、明らかに相当性に欠けるという非難を免れず、注意を受けた被害者において反発的な言辞をはいたとしても、これを強く責めることはできないというべきである。しかも、本件では、被告人も自ら認めるように、犯行直前の被害者の態度は、被告人に対して殴りかからんばかりというような険悪なものではなかったものである。そのような被害者に対して本件犯行に及んだことについて、被告人は、被害者と口論等になって出勤時間に遅れることを危惧し、同人を振り切るべく回し蹴りを加えたと述べているのであるが、これは極めて一方的、身勝手な言い分と評せざるを得ず、本件犯行を何ら正当化するものではないことは言うまでもない。かかる経緯から、被告人の行為によって死に至らしめられた被害者の無念さは察するに余りあり、被告人に対して厳罰を望む遺族の心情も十分に理解できるところである。更には、被害者が倒れたことを認識しつつも、何らの救護措置を講ずることもなく、そのまま電車に乗り込んで現場から立ち去ったという被告人の犯行後の態度にも問題があり、これらの事情を考えるとき、被告人の本件犯行は強い非難に値するというべきである。そして、本件犯行は、被告人も公判廷で反省の意を込めて述べているように、国民の間に地道に浸透しつつある禁煙についての認識と理解に水をさしかねない、誠に遺憾な事件であって、被告人に対しては、禁煙を口にする資格がないと非難されてもやむをえないところである。
しかしながら、他方において、被告人の被害者への暴行は回し蹴り一回限りに止まっており、当時の被告人の認識としては、ことさらに強い加害の意思までは存在しなかったものと認められ、被害者が後頭部からホーム上に転倒したことによって、不幸にも予想外に重大な結果が発生してしまったという側面があることは否定しえない。また、最終的な示談こそ未だ成立していないが、これは被告人側の支払い能力と被害者側の求める示談金額との折り合いがつかないことが主因であり、既に金一七五〇万円が被害者の遺族に交付され(なお、被告人側は、保釈保証金二五〇万円についても、その取戻手続きが済みしだい、これを遺族に支払うことを確約している)、被告人側に遺族の慰謝のために誠意を尽くそうという姿勢が認められ、これらの点は、本件量刑にあたって被告人のために斟酌しなければならない。加えて、被告人は、捜査・公判段階を通じて素直に犯行を認め、反省の態度を示していること、被告人は若年のうえ、これまで真面目に生活してきたものであって、前科・前歴が全くないこと、両親が今後の被告人の指導監督を誓っていること、被告人は本件で逮捕・勾留されたうえ、勤務先を解雇され、既に一定の制裁を受けたものと考えられることなど、被告人にとって有利な情状が認められるので、これらの事情をも総合考慮し、主文のとおり量刑したものである(求刑 懲役三年)。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官羽渕清司 裁判官小池洋吉 裁判官大島淳司)